淳化法帖釈文・淳和法帖巻七晋王羲之書合本

表紙

『淳化法帖釈文・淳和法帖巻七晋王羲之書合本』内村鱸香・瀧川家旧蔵

 

 書法の学習、鑑賞用に、中国名家の書跡を収集した法帖が尊ばれ、江戸時代に模刻が出版されるようになった。模刻とはいえ、一種の美術品で、なかなか高価なものであったらしい。この書も、師である内村鱸香が有望な弟子であった瀧川亀太郎に死後形見分けしたものではないかと考えられる。

 内村鱸香(1821-1901)は松江生まれ。幕末-明治時代の儒者。貫名海屋、篠崎小竹に学ぶ。1864年帰郷して、出雲松江藩主松平定安の侍講をつとめる。維新後は師範学校や私塾相長舎などでおしえた。名は篤。字は子輔。号は鱸香、倉山堂など。通称は与三郎、友輔。

 瀧川亀太郎(1865-1946)も松江生まれ。漢学者。字は資言、号は君山。『史記』の注釈である『史記会注考証』は、天下の名著で、中国本土でも『史記』研究者必読の書とされている。

 この二人の師弟関係の深さを示す貴重な書である。
題簽には、「先師内村鱸香先生旧蔵 寛延三年 法乾隆十五年刊」とおそらく瀧川亀太郎の自筆で書かれている。

 

 この合本の、前半は寛延庚午(3年。1850)の奥付のある『淳化法帖釈文』で、後半は『淳化法帖』10 巻のうち巻七の『法帖第七晋王羲之書』である。『淳化閣帖』10巻は、宋の太宗の勅命により、内府所蔵の書跡を集めて、淳化3年(992)に完成した。原本は早くに失われ、多数の再版が制作された。そのうちには乾隆帝による『欽定重刻淳化閣帖』があり、この書はこれを模刻したものであるらしい。蔵書印の位置から、内村家所蔵の時から、現在の形で合本されていたことがわかる。王羲之の書を重んじたからであろうか。

 蔵書印は、内村鱸香の「倉山堂蔵書記」、「内村氏家蔵記」、瀧川亀太郎の「瀧川氏図書記」。

 

 興味深いのは、虫除けのためか、広告紙に煙草の粉を包んだものが本書に挿まれていたことである。その広告紙には、以下のようなことが書かれている。

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 瀧川亀太郎は長く仙台の第二高等学校(今の東北大学)の教授をつとめたが、その間も師の旧蔵本を大切にしていた姿が、生々しく目に浮かぶ。この煙草の粉と広告紙も原本とともに、後世に残したいものである。