日本政記剳記

 

表紙 見開き

『日本政記剳記』雨森精翁著 明治十年出版 同盟書房刊 全4冊 16巻

 

 今では、読む人は稀になってしまったが、頼山陽(1780~1832。江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人)の『日本外史』や『日本政記』は、幕末のベストセラーであり、勤王の志士をはじめ、社会に与えた影響は絶大であった。そして、若いときに頼山陽の書を読んで感動した世代が、明治になって、『日本外史』や『日本政記』を今度は教科書として用いて、次世代を教導していったのである。これらの書は、単に歴史の知識を羅列するものではない。藩帰属意識や地方意識が強かった人々に、尊王攘夷的な感情をかき立てることによって、「日本人」、「日本民族」というものに現実感を与えた。いわば明治以後の国民国家の精神を準備するものであった。また、頼山陽のロマンチックな言葉遣いは、その摸倣者を多く生み、新時代にふさわしい「国語」を形成するのに役だった。後に口語が文語を圧倒するようになっても、彼が創造したり、新たな生命を吹き込んだりした漢語(熟語)は引き続き用いられることになるのである。

 雨森精翁(1822-1882)松江藩儒。本姓妹尾氏。名は謙、通称謙三郎、字は君恭。号は精斎・精翁・老雨など。出雲の人。幕末から明治維新にかけて、政治家、官僚として活躍するが、晩年は平田村(現島根県出雲市)に隠居して、後進の指導に尽くした。その際に、『十八史略』及び頼山陽の『日本外史』、『日本政記』を教科書に選び、その講義や注釈が門人達によってまとめられ出版された。『十八史略校本』、『便蒙日本外史纂語講義』、 そしてこの『日本政記剳記』である。『日本政記剳記』自序にいう。「帰田して已に三年なり。日々農圃と共に処り、復た撰述に留意せず、会(たまた)ま隣童、頼氏の日本政記を携え来たりて質す。余は其の志を嘉して、随って答え随って記し、便ち一帙を成す。題して剳記と曰う・・・」。これらの著作は、原書の誤りを正し、典拠を明らかにし、簡にして要、類書を圧倒し、注釈書として高い評価を得ているもので、後世に与えた影響は大きい。雨森精翁もまた頼山陽同様、近代日本国家や日本語の形成に貢献したと言うことができよう。

 原典の『日本政記』は、神武天皇から後陽成天皇に至る編年体の歴史書で、頼山陽が晩年に精魂を傾けて著述にうちこみ、死の直前1832年にほぼ完成した。史実を述べた後に、「頼襄曰」として論賛が付され,その歴史論・政治論は『日本外史』同様幕末の志士の心情を刺激したのであった。 この『日本政記剳記』には、漢詩人・諸家として著名な長三洲(1833-1895。豊後の人)が巻頭の揮毫をよせ(門人永井教三がその揮毫の由来を識している)、官僚・教育者の国重正文(1840-1901。長門の人)が序を書いている。また、門人渡部翼が雨森精翁の自序を代書し、村田寂順(1838-1905。出雲の人、僧侶、天台座主に昇る)が後書をしたためている。また、雨森精翁の生家の方のいとこ妹尾春江が挿絵を一図書いている。奥付の発兌書林には、大阪の田中太右衛門以下九名が挙げられているが、その中に出雲国島根郡松江の稲吉吉蔵 同国楯縫郡平田村儀満柳造がいる。これらのことは、雨森精翁の交遊、師弟関係を知る一助となろう。